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横に立つ

お世話になっております、河瀬です。

 

今年も師走になってしまいましたが、夏の間に動画を作ってみました。(長濱先生が)

 

ヴァイオリンレッスンを受講されているお子様の保護者様から、ご自宅でどのように練習をすれば良いか分からないというご不安のお声をいただく事が多いため、ご自宅での反復や確認が必要なものを試しに作ってみました。

 

楽器の構え方、弓の持ち方といった基礎的な事はレッスンで何度も確認、修正するのですが、ご自宅での練習前にサラッと確認出来るよう要点だけ纏めた短いものをご用意致しました。

楽器の構え方、弓の持ち方は流派により見た目にも違いがあり、体格、腕の長さ、手の大きさにより微妙に違って良いと思いますので、大体の目安としてご参考にして下さい。

他にも、音名(ドレミファソラシド)で一緒に歌ってもらうための動画を作りました。

小さなお子様のヴァイオリンレッスンでは、楽器を弾く前に音名(ドレミファソラシド)を歌うことから初めています。

一番の目的は、楽譜を読むための前提として、音名(ドレミファソラシド)を覚えて上下の順序関係を覚えてもらうことです。

もう一つは、ヴァイオリンの場合、ピアノのように鍵盤を押せば正しい音程が出るわけではなく、音程(音の高さ)を自分で覚えて、その音程を左手で押さえる弦の場所を変えて再現していくことが必要になるため、先ずは自分の耳で感じ、声で再現する事が大事な練習になります。

他にも、先々の話ですが、ソルフェージュという音の読み、書き、聞き取り、といった座学を行う際にも音名で歌うのですが、そういった勉強の初めの一歩としても大きな意味があります。

 

今回作った動画には「ドレミファソラシド」以外にもレから歌い始める「レミファソラシドレ」、ソから歌い始める「ソラシドレミファソ」、ラから歌い始める「ラシドレミファソラ」、といった別の種類のものがあります。

歌い始めの音を変えると、同じ音の名前でもシャープやフラットといった音程を変える記号が付き、違う音程になる音があるため、音程を覚えるという目的であれば全てのパターンで練習することが望ましいのですが、先ずは初歩の教材によく出てくるものを練習してもらいます。

ですが、第一の目的である「音の高さの名前(ドレミファソラシド)を覚えて上下の順序関係を覚えてもらうこと」は、「ドレミファソラシド」を覚えれば始まりの音が変わっても順序自体が変わっている訳ではないため、そんなにたくさんのパターンで歌う必要はないのでは?と思われるかもしれません。

しかし、実際のレッスンでは「ドレミファソラシド」をすぐに全て続けて言える子であっても「ド」以外の他の音からは言えない事がよくあります。

また、登っていく事はできても反対に戻ってくることが出来ない事もよくあり(ドシラソファミレド)、その場合「ソの一つ下は何の音?」という質問に対しても分からない場合が多いです。

その場合、楽譜の五線にある音符を他の音の名前を頼りに何の音か数える、ということが出来ません。

 

以下はそのような認識の問題に関する事になります。

 

外界の物理刺激を受容器を通じて取り込んだそれ自体は感性経験・認知と言われ、それが何であるかということを過去の経験や推論、類推、によって観念的に意味づけることを認識と言われています。

(リンゴ、トマト、風船が見えているという意識は認識的であり、丸くて赤っぽい何かという視覚的情報が言語によってカテゴライズされずに感じている状態が認知的)

大人と子どもではその認知、認識の仕方が違うということを主張したジャン・ピアジェはその認識の発達を4段階に分けています。

(以前の記事でスキーマの話を書きましたが、その認識の概念を提唱したのがピアジェです。)

第一期「感覚運動期」では目の前にある刺激に対処することは出来るが目の前に無いもの、起こっていないことに対処する事は難しく、

第二期「前操作期」において今の物理刺激以外のもの(言葉等)によった知的活動が少しずつ出来るが、目の前の物理刺激に影響されやすく、論理的思考は十分に行えない、とされ、

第三期「形式的操作期」で具体物や具体的状況においてのみ論理的思考が可能、

第四期「形式的操作期」において帰納、演繹等の言語、記号のみによる抽象的な論理的思考が可能とされています。

 

ピアジェの理論では対象の量、数、重さ等の属性が対象の見た目とは独立である事の理解を「保存の概念」と定義しています。

底面積の大きい容器に水が入っている状態から底面積が小さい方に水を入れた場合、底面積の小さい方では容器の上の方まで水があるため、小さなお子様では「水がたくさん入った(になった)」という誤りが起こり易いのはこの「保存」がまだ獲得されていないためだと言われます。

発達の段階によっては、目の前で元の容器に移し、水量は変化していないことを見せた後でも水が増えた、減った(容器に移した時に変化した)と答える子が多かったとの実験結果が多く出ているそうです。

元の容器に戻ったとき同じ高さになった場合水の量それ自体は変わっていなかったという事は論理的な可逆性を理解できないと導き出せません。丸めた粘土と広げた粘土が同じ量のものであるという事は私達のようには自明ではなく、言葉でいくら教え込んでも、理解、納得していない事は多くあり、その他の事象でも原理的誤謬が起こり易いという事でしょう。

以前何度か書いた行動心理学では学習は経験の量に概ね比例する立場を取りますが、ピアジェ理論では子どもの思考が大人の思考の量的少なさ(経験、速さ、正確さ等が単に劣っている)にあるのではなく質的に大きく異なるという考えのため、子どもは生活場面で日々数えきれないほど経験しているはずの自然物理法則を大人と同じようには認識していないため、大人であれば理解出来る経験数を経ても「考え」によって導き出さなければならないことは私たちと同じ認識を持つことが難しく、その他の事象に応用することも難しいとされます。

これが出来た(経験した、理解した)ならこれも出来るはずという大人の常識は当てはまらないということです。

 

音名を歌う場面においては、「ドレミファソラシド」の反対を言うためにはそれが認識として理解され「保存」されていなければならず、他の音から始まっても変わらずにその先の音名は順序の法則性を理解した上でそれが保たれて存在している必要があり、そこから、ある音名に対して上や下と言う方向性の操作をしなければなりません。

更に、音符や音名は水や粘土といった具体物理物質ではなく、観念的な概念のため、日常感性経験的に(五感で)取り扱っているモノより「保存」「操作」の難易度は高くなります。

音の名前それ自体と順番、感性経験として得る周波数の高さを一致させること、音名と音符の五線上の場所の一致、これらの事は日常生活事象よりも遥かに抽象的であり、ピアジェの認識発達論に照らし合わせるのであれば第二期であってもそうした思考活動を完全にこなす事は難しく、場合によっては何度「ドレミファソラシド」を経験してもその反対は導き出すことが難しいかもしれません。

 

ピアジェの発達認識段階論では、感じている感性的世界を取り入れる「同化」その過程において習得している既存の事物の概念図式を「調整」し、自身の認識の仕方そのものを「均衡化」させることを繰り返すとされていますが、その発達進度は個体の生物的成熟を前提とした前成的な考えと言われることもあり、栄養等の環境を与えれば身長が全員同じ速度で伸びる事が無いように、学習に対してもその子個人が持つ生物的な成熟進度として、対象の課題に取り組む準備が整っている事が大事であるとされるため、教育プログラムは個人の発達状態に合せて進める事になります。

前回のエリクソンの理論と違い、認識の発達は順次進行であり、逆行することもスキップすることもない理論のため、現在の段階で取り組んでいる課題を完了しない事には次の段階での課題に取り組む事は難しいとされます。現在取り組んでいる「同化」の対象と心内での「調整」「均衡化」を待つことは、取り組まねば進まない課題に蓋をしているように見える場面もありますが、然るべき段階に至り、今より容易に理解、習得する事が出来るのならば、現在の段階では負担の大きい譜読みに時間と労力を割くよりも、「ドレミファソラシド」と「レミファソラシドレ」をそれぞれを別のものとして覚えてもらい、感じる、体験するといったその段階に適した感覚的な活動を多く取り入れる方が発達の段階を考慮したその子に今必要な教育活動であると言えます。

「ドの下はシ」という端的な正解をその場で覚えさせることは簡単ですが、外から見える行動(発言)だけを遂行しても心内で起こる認識の問題は解決しているとは限りません。ピアジェの「子どもたちが本当に理解しているのは、自分で発明したことだけだ」という言葉通り、同じ世界にいながら私たちとは全く違った世界に感じている子どもに対して、私たちが教えたいことを子どもたちに言い聞かせれば事が済む程、話は単純ではなく、子どもにとっての世界の発見、発明を待つ場面も時には必要ではないでしょうか。

 

ピアジェの教育観は以上のように個人の発達に合わせ、その子が今取り組んでいる認識の概念図式を形成する活動を重視するため、「教育」という言葉でイメージされる現在主流の「前に立って引っ張っていく」ような教え込むスタイルというより「横に並んで見守る」という印象があります。

音楽教室の個人レッスンは、学校のように集団一斉教育ではなく、学力のように横の進度が否応無しに気になるほどのものではありません。

前成的という言葉には古い決定論のような否定的なニュアンスはなく、個人が生まれながらに既に個性的であるという意味で、その個性に本当の意味で横に立つには一人一人の横に個別に立つしかありません。

小さな狭い一室であっても、30分の短い時間であっても、お越し頂いた一人のための時間と空間です。

その中で可能な限り、ご希望とご要望に添えれば幸いに存じます。

 

保護者の皆様も、お子様のご成長の程、どうぞ長い目でお待ちいただけると幸いです。

岡崎市バイオリン教室
岡崎市バイオリン教室