河瀬です。
前回は「鈴木慎一ヴァイオリン教本」の著者、鈴木慎一の教育観を書いたのですが、その教育観は「人間は環境の子なり」と明言している通り、教育心理学としては明確に環境説の立場であります。
人間の能力は環境か遺伝かという論争は何百年もの間議論されており、17世紀の哲学者ジョン・ロックは「人間はタブラ・ラサ(何も書かれていない石板)である」と、人間は生得観念を持っていない状態(白紙)で生まれるのだという完全な生後の環境論を唱えていますが、現在ではここまで極端な主張はなく、どちらの割合が多いのかという事が日々新しいデータと共に議論されている状態です。
音楽や芸術は他の領域に比べると「才能」という言葉がよく当てられており、才能による影響が大きい領域ではないかと思われる方も多いと思います。
鈴木慎一ヴァイオリン教本一巻には「素質だ、遺伝だと考えて、子供を育て損なわないようにして下さい…」
という言葉が載っており、音楽の才能は遺伝ではないとしていますが、現在ではどの程度遺伝が関係しているとされているのでしょうか。
人間の行動が生まれ持った遺伝的特質にどのくらい影響を受けているかという事を研究する分野を「行動遺伝学」というのですが、行動遺伝学を研究している慶應義塾大学の安藤寿康教授は双生児の行動を様々な観点から調査し、遺伝と環境の割合のデータを提示しています。
写真の上部、才能の項目をご覧ください。
黒い部分が遺伝による影響の度合いを表しているのですが…音楽はなんと90%以上という結果が出ております。
スポーツ、執筆、数学といったものも80%以上ですが、それらを抜いて音楽は最も遺伝の影響が現れるとなっています。
さて、このデータから導かれることは、音楽は、環境(家庭、先生、道具、設備等)、経験(練習時間や音楽的経験)が同程度の場合、遺伝的特質により個人差が相当に表れるということです。
これは学校の成績でも同様に、教師が生徒全員に平等に教える事を心がけていればいるほど必ず個人間の結果の差は出るという事です。
もちろん教師は学習者の学習傾向、適性等を分析した適性処遇交互作用(ATI)を考慮して個人に対し教え方を工夫するといったあらゆる手段を講じますが、それらを駆使しても尚個人差は生まれます。
さて、音楽は素質も才能も他の領域に比べて寧ろ大きく遺伝的特質が影響する事がデータとして示されているのですが、それでも、鈴木慎一の思想が否定されるわけではないのです。
この研究のデータをご覧いただき勘違いなさらないで頂きたいのは、生後の環境や経験が一切無駄という事ではありません。
当然ですが、一切の音楽教育を受けず、一回も練習をせずに一流の演奏家が出現する事はあり得ません。
どんな演奏家でも血の滲むどころか血反吐が出るような努力の賜物であると思います。
ですが、その成果の個人差はそういった教育や努力といった生後のものだけではなく、生まれ持った遺伝による特質に大きく左右されているという事です。
鈴木慎一の著書「奏法の哲学」にある「『能力は経験とその回数に比例して形成されていく。』という原則は動かない事実です」という主張は確かに個人内の学習成果で言えばどれだけ個人間に差があったとしても間違っていません。
そして鈴木慎一が目指しているのは音楽の能力、才能という次元ではないのです。
「私は音楽家を育てる為にこの運動をやっているのではないのです。一般市民の総べてが音楽的感覚の人に育ち、人間として芸術性を持った人となることができたら、その民族はどんなに好ましい民族となることでしょう。私は地球上の総ての人間が、そうした芸術性を持つ時代の招来を願ってやまないのです。」「鈴木慎一:奏法の哲学(ヴァイオリニスト、ベズロードニーへの手紙から)」
遺伝論者は唯物決定論者的に見られる事がありますが、先程紹介したデータは偏った視座から主張しているわけではなく、安藤教授はその著書の中で「私自身は元々、強固な環境論者でした。『才能は生まれつきではない』『人は環境の子なり』をスローガンにしたヴァイオリンの早期教育、スズキメソッドの創始者鈴木慎一氏の思想に深く傾倒し、教育学の卒業論文テーマに選んだほどです。」と述べている通り偏った遺伝論者ではありません。
しかし長年の研究の結果、現在では才能は存在するという結論に至っています。
安藤教授は、現在の所、遺伝による才能は両親の能力を考慮しても、受け継がれる遺伝子の伝達率は減数分裂によって概ねランダムに決まり特定の法則性は見つかっておらず、子どもの才能は予め予測する事は出来ないとしているため、結局の所、まずはやってみるしかないのですが、その際、本人の興味や関心を一つのヒントにしてみるという提案をされています。
科学的なデータではありませんが、「好きこそ物の上手なれ」という事は臨床的にも実感される事が多いのではないでしょうか。
ここからは私の気持ちになり大変恐縮ですがお付き合い頂けると幸いです。
先にあげた研究における音楽の才能は他人との比較による自己評価に基づいています。
それでは音楽の才能をそのような相対的な成果に帰結すると、他人より技術が上手いか下手か、といった事になります。
数学では計算の結果に正解が明確に存在し、スポーツにおいては競技としての優劣を決めるための基準が初めに明確に存在するため、それぞれの領域における良さが定義可能であり、その良さの度合いを端的に測る事が可能かもしれません。
しかし音楽それ自体には正解が存在せず、優劣を競う事が目的ではない事を考えると、他の領域のように音楽それ自体の一般性を持った良さを定義する事が出来ないため、音楽の良さという条件を満たす諸要素を端的に測ることは難しいのではないでしょうか。
テクニックが特別優れているとは思えないのに心打つ演奏が存在し、上手に演奏出来なくとも楽しいという肯定的な経験は存在します。
寧ろ音楽の良さは一般的に定義されるものではなく個人的に感じるものであり、その好みは千差万別ではないでしょうか。
音楽の良さというものが定義され得る可視化可能な優劣によって決める事が出来ないとすれば、そもそも音楽に才能など存在しないのではないでしょうか。
才能という言葉が先にあり、では音楽の場合は…、と後から無理に当て嵌めたに過ぎないのではないでしょうか。
確かに音楽の良さは技術の優劣に影響される事はありますが、そのような場合でも技術の高さはその時の必要条件の一つでしかなく、それだけで良さが普遍的に決まる十分条件ではありません。
それでは音楽が可視化可能な優劣の成果ではないとすれば、現れている個人間の差異をどのように価値付けるか。
私は音楽の遺伝的特質を才能ではなく個性と捉えたい。
音楽の良さが定義可能で可視化可能な端的なテクニックの優劣(才能)であるとすると、音楽教育により目指される上位概念の目的は才能がある者に優先して開かれる事になりますが、音楽の良さが可視化可能な端的なテクニックの優劣(才能)ではなく個性として捉える事が可能であれば、音楽教育により目指される上位概念の目的には個性の数だけ多様な道が存在する事になるのではないでしょうか。
行動遺伝学の研究を踏まえ今後の音楽教育を考えると、私たち講師は遺伝的特質により差異が大きく表れる音楽を端的な技術能力を才能とするのではなく、その上の一般化され得る目的を意識する事で、そこに至るためのプロセスを個人の個性として意識し、多様な興味や関心から個人内の能力を育てていく事が必要であると言えるのではないでしょうか。
先程の鈴木慎一の引用文の続きにはこのような文章が続きます。
「もう一つのことは、このバイオリン教育によって、子供達がそれぞれの方面に伸びていく能力の発達の上に、きわめて大きな力を涵養することにもなるということを知ったからです。」
18世紀の哲学者デイビットヒュームは事実命題から推論によって価値命題を結びつける事は出来ないというヒュームの法則を提唱しているように、元来科学は価値や意味に対し中立である事を基盤として発展してきた事を考えると現れた事実自体に価値や意味は含まれず、どう捉えるかは別の領域であります。
私は子ども達が持つ音楽的特質は才能ではなく個性だと思いたい。
そう捉える事が出来たなら、それぞれの個性の方面に伸びていく希望はより大きくなるのではないでしょうか。